昭和40年7月5日 夜の御理解   ★×4



 どんなに知恵があると言うても、才覚があると言うても、人間の知恵や才覚というものは、限度がある限りがある。しかもその知恵やら才覚やらが、神様の心に叶うことに使わせて頂けばまだしものこと、その知恵やら才覚がご神意に叶わない方向に向けられたりする時、おかげが受けられないことになる。
 どうでもひとつおかげを頂いて、うーん、確かに、ここの信心の中身に「馬鹿と阿呆で道を開け」とこう仰る。今日、田主丸教会の客間というのに、初めて今日通されたんですけれども、なかなか先生のセンスがいいんですね、すっきりした部屋が2階にございます。そこにあの、床の間の正面にかぼちゃの絵がね、かぼちゃの絵がこう出てるんです、もうそれがよう、絵じゃなくて写真か絵か分からんですけれども、★私、座らせて頂いた途端にですね、「これでいかにゃいけん」て、「これでいかなければいけん」ということを頂くんです。
 かぼちゃというのは、まあ言うならあの、馬鹿の代名詞のようなもの、あれは(ぼうぼ?)ができんち言うでしょうが。そういう意味だと思ったところが本当に今日は馬鹿にならなきゃならないようなことがあったんですね、あの、おかげを頂いてから。隣接教会のはんを、親先生と二人であちらへ頂きに行って、もう本当にもう簡単にできると思っておったのがもう、そら向こうが同意しておるのですから、そのことでもいいのですけれど、まあ何とかかんとかいろんな話がありますもんですからね、2時間あそこに待たして、もうそりゃあの、今日は(?)さん所の「きよしさん?」が一日御用頂いて下さったから、よかったですけれども、まああっちがもう本当にまち長いこと経っておると思うんですけれどね、けれども、本当にあそこで途中でイライラしたり、こちらが、ああ、その、してはやっぱりいけない。ご神意の中にあることですから、まあおかげ頂いたんですけれども。
 結局、あの、「十分の徳を受けようと思えばままよという心になれよ」とこう仰る。「ままよとは死んでもままよのことぞ」と仰るのですから、もうこれは厳しく言えばそうなんですけれども、まあ「馬鹿と阿呆で道を開け」と仰る、それにもこれは通じることだとこう思うですね。ままよという心になるんですから、ね。そこには神様の働きが十分に、この、あってくる。いわゆるその、こちらが、ああ、まあ(ほけ?)のようにしていくというのではなくてですたい、そのことに、例えば努めながら2時間なら2時間という間をもうかぼちゃになって、そげやって座ってさえいきゃあいいというような感じですね。
 これがですね、本当にあの、私共のそういう、その、おー、(ああい?)がよい、こうしてくれりゃよいとか、「もうせからしか早よはんば押さええとに」とこう思う心がやっぱもうおかげ頂かない元なんですね。
 親先生が、もうちょっと私に(たとえた?)後に、「もうこげんいつまででんぐずぐずしなさるなら、もう私、頭痛うなる」ち。「まあ、待たんの待たんの」と、「はんば押してもらえさえすりゃ良かじゃけん、まあ一時、まあ辛抱せんね」って私が(おさえるともになった?)んですよ(笑)、ね。まあおかげ頂いたんですけれどもね。
 先ほど、御祈念前でした、福岡の松岡さんがおばあさんのですね、お母さんの方がやってまいりましてから、二番目の息子が(?)の家から嫁をもろうとりますもんね、今、お産ある時にこっち来て、この頃の月次祭におかげ頂いたんです。ほいて、あのう、子供ができておる、それで名前を今日、頂きに来ておるわけなんですよね。ほいで、あの先ほど私、お名前を頂こうというので、あそこに、あの、ご神意を伺わせて頂こうと思うて、どうしても、10分経っても15分経ってもご神意、あの、頂かんのですよ。
 ★はあ、これは私がご結界に座らないかんとじゃろうかと思うてご結界来てから、またお願いするけれども、頂かんのです、ね、そして、頂くことは今、ただ今申しますようにです、「本人が白紙でない、本人達が白紙でない」という意味のことを頂くから私がこれは松岡さん、あんたげんあの、息子か嫁かどっちが嫁ごか、あの、お名前は神様から頂かんので自分どんで決めておるとじゃなかのと私が言いましたら、はあ、(?)ちゅうてから恐れ入るわけなんです、うん。
 もう二人で今の名前ば三つばっかり、その、決めておるち、で、このうちのどっかいっちょちゅってその、まあ、ああ、言うておるらしいけれども、あの、おじいちゃんとおばあちゃんがですたいね、あんな熱心な信心頂いておりますもんですから、そげなこっちゃいかんて、家の子供でも、長男の方の子供も皆、神ながらな(?)名前ば頂いとるけん、お前もそんな事じゃいかんから、今日、あの、ばあちゃんにお願いして、(?)から、お名前頂きに行ってくれとこういう訳なんです。えー、行ってもらえとこういうわけ。
 んなら、ばってん、何かこう自分どんでつけとる名前が良かろうごたる気がするわけなんですね。だから(それけん?)どうせ頂かんよっち、と言うてですね、そのう、まあ言うたことでございますけれども、いかに自分達の中に思いがあっては、これがいいあれがいいといったようなことではご神意が動きかねるかということが分かるでしょうが。白紙になっておかなければいけないかと、いわゆる、言うならば「ままよの心」です。もう太郎っちもらおうが次郎っちもらおうが、もう神様がつけて下さるとという気持ちでなければ。ね。
 そら( ? )自分でちゃんと心の中には決めておいてから、ご神意を伺いよるもんだから、なかなか頂かれんので、いわゆるこれはたったそれだけのことだけれども、一切のおかげもそうなんである。神様の、いわゆるご発動というかご神意が動いてくると。ご神意が動いてくるということはおかげの分しか動きはせんのだから、この神様の信心は、ね。
 いかに私共の心の中に、言わば、私がいつも言うようにちょっと言葉が当たらんけれども、「どうでもよか」っちゅう気持ちになっとかないかん。そうかと言うて、神様へ一生懸命の信心をさしてもらう、教えを行じることでも改まることでも磨くことでも一生懸命になっておって、どうでもよいという白紙の状態でなければいけないということ。
 ★それから、また、神様にお願いをして頂いたら、頂くことが、うーん、このご造営のこと。「ご造営一年」ということを頂くんです。なるほど、ご造営、ご造営が始められた、やはり記念の今日ではないですよね、(今年までですから?)、ね。だから、「昭和」の「昭」という字は、あれはあの、( ? )らがご造営になる時の、なるという意味だそうですね。だから、「昭和」の「昭」という字は「あき」といいますから、また、松岡さん達が元気な心でご造営のことに取り組んでおりますから、ね、いわゆるその、「英雄」の「雄」です、「昭雄」という、私はお名前を頂きました、ね。松岡昭雄と。だから、もうしかし本当にもうこれが生きた御理解ばいちゅって私(?)ね。本当に生きた御理解じゃろうがって。私はそのことを息子やら嫁娘に言うて聞かせたら、今度は分かるじゃろうと言うてから、喜んで帰ったんですけれども。それほどの名前を頂くとか頂かないとか、というだけのことなんですけれども、これが、もっと金銭的な問題にも、貧困の問題にも、一切の上にこれが、同じ理屈をなすことだと、こういうこと。
 ままよという心というのはです、どういうような場合でもままよというものがなからなきゃいけない。「ままよとは死んでもままよ」と、太郎さっちつけようが次郎さっちつけよう、つけて頂こうがです、神様が下さる名前ならば有り難く頂こうという気持ちがなからないかん、ね。
 今度のおかげを頂いてから、その隣接教会のはんを頂くことができて、まあ親先生が手続きとって下さるでしょうけど、だからこれでもう、いよいよおかげを頂くというふうに決めてしまわずにです、それがまあだどういうふうに変わっていく様子が分からんのだから、ただ、こちらが自分の足元をしっかり見極めさして頂いて、信心を続けてさえいきゃあよいと、そう思わせて頂いたら、頂くとがね、★だるまさんのね、だるまさんに、衣着せよったら中がこまいとて、だから衣がだぶだぶやけんで、その、言わば、だるまさんがこげんしとってもってから、すぽっと(?)を頂く。
 ははあ、( ? )ね、だるまさんは。ね、だから、この着物でちょうど大きいなるまでこちらが太らせて頂く時に、言わば、ころんで、ころぶっちゅうことはいかんけど、何か問題があるたんびんにです、大きゅうなっていくようなおかげを頂いていかなきゃならんのだなと私は思う。いわゆるご神意にです、だんだん、一歩一歩近づいていきよるんだなあということ。もうこれで解決ということじゃあない、問題はこれからまあ、だるまほどあるということ。なら、こちらの人間心を使うならばそれで結末がならんようなことがあろうと思うけれどもです、ね、そこんところを私共がです、ね、大きゅうなっていくことのために、それを頂いていかなければならない。
 それにはどうしても、私共があああるといいけれどもといったようなものではなくて、いつも自分の心の状態が白紙の状態、それをまたの言葉で言うと馬鹿と阿呆ということにもなる。それを教祖様の御教えをもって言うならばままよという心である、「十分に徳を受けようと思えば、ままよという心になれよ」と、「ままよとは死んでもままよのことぞ」と。そういう信心がね、だんだん身についていくおかげを頂いていきたいと思うですね、おかげを頂きました。


明渡 真